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プロフィール・サブメニュー プロフィール・トップ 履歴書型プロフィール 光田バイオグラフィー(1999年作成)

<光田康典のまだ短くも長い今までの人生、いわゆるプロフィール>

 1972年1月21日、山口県徳山市に生まれる。小学校に上がる少し前に同県熊毛郡熊毛町(現:周南市)に移り、高校卒業し上京するまでの少年時代をそこで過ごす。幼少の頃は音楽とは無縁の、野生児のような日々(要するに野山で遊ぶ)。とはいえ、4歳上のお姉さんの影響で、小学校時代は6年間もピアノを習ったりしていたが、練習嫌いにより、ほとんど上達せず。本人いわく「あれは習わなかったに等しい」。(先生のお宅に遊びに行ったついでに、ちょっとピアノに触ってきた、というのがお稽古だったらしい。)それとは反対に、かけっこがやたら速かったらしく、中学時代には、部員でもないのに県の陸上競技大会の出場メンバー(ハードルと短距離とリレー)にされたりしたらしいが、これまた練習嫌いにより(正確には練習拒否)結果を出せず。ちなみに、小学校の時は水泳の選手、なんてのもあったらしい(ふう、なんてスポーツマンなんだ・・・)。

 音楽を志したのは、進路を決めねばならない高3の時になって、切羽詰まってのことだったという。なんといっても中学の頃なんかは、プロゴルフ・プレイヤーなど目指し、自宅の庭にてスイングスイングの毎日。でも、そのうち自分の才能の限界を感じ、挫折。なんでも父親に、プロというのは、タイガーウッズのように(当時はその名は知られていなかったが)幼い頃から英才教育を受けなければ、なれるはずがないのだ、と言われ、それを真に受けたらしい。で、高校時代は映画にはまって、当時観た「鉄道員」(白黒の洋画。ヒロスエじゃないよ)の音楽にえらく感動し、他にも「ブレードランナー」なんかの音楽にも・・・あとはヘンリー・マンシーニあたり(オードリー・ヘプバーンの一連の作品の作曲家)に強く魅かれ、目先が「自分もあんな素敵な映画音楽を創れたら・・・」に変わったらしい。単純だが、まあ、人生そんなもんである。そして、その他にももう一つ、彼の現在の姿を知る上で非常に大切な要素があった。それは・・・。

 幼い頃からとにかくアウトドア派だった光田ではあったが、なぜか小学校4,5年の頃から、パソコンなどという、当時としてはまだ珍しいものを所有していたりする一面も持ち合わせていて、(当時、彼の叔父さんとやらが、これからはコンピューターの時代だ!パソコンくらい出来んようじゃ、世の中についていけん!とかなんとか言ったらしく、おおそうか!ということで、さっそく父親が9,800円(!)だかのパソコンを買ってくれたそうな。フットワークめちゃ軽い叔父&親父!)それにすっかりはまって自分で色々試行錯誤しつつ遊んだ体験が、今の彼を支えているといっても過言ではなさそうだ。そんなところから、パソコンで曲を作ってみたり、ゲームを作ってみたり(かなり幼稚なレベルだったらしいが)、更には高校時代を電気科の高校で過ごした経験もあって、いわゆる先進機器に対しての気後れがまったくないという素地が出来ていたようである。うーん、うらやましいかぎり・・・。

そして当時、どうしても早く自立したい、という願望があったそうだ。この辺の事情については、家庭の環境がそういう気持ちにさせた、ということらしいが、お姉さんが結婚して家を離れるのとほぼ時を同じくして、高校卒業と同時に上京することになる。(御両親は、いきなりお子さんが二人とも親離れしてしまって、さぞや寂しかったことでしょう・・・)最初は同じ関西の大阪あたり、などと消極的に思っていたらしいが、どうせやるなら東京で一旗あげてこい!的な頼もしいオヤジの一言で、東京で音楽をやる、ということになったらしい。そして、東京のとある音楽短大のコンポーザー・アレンジャー科へ進学。

 音楽学校時代は、まさに下積みの時代だったといえよう。まっさらに近かった音楽的知識を埋めるのもさることながら(なぜ四年制の音大ではなく短大を選んだのか、その理由はこの辺にあろう。要は、自己レベルが低すぎて選べなかった、ってこと)、体を張っての勉強が、とにかく彼にとっては大きかったらしい。いわゆるローディーというお仕事、などなど。お仕事といっても、もちろん金銭的報酬のあるお仕事ではない。彼にとっての音楽の師匠は、当時の音楽学校の諸先生だったというが、その先生方というのは、それぞれ個人的に音楽活動をしておられたらしく、そういう先生にしつこくくっついていって、機材運びなど色んなお手伝いをしながら、自分の目と耳で学んだのである。そういう経験のさなかには、さまざまな屈辱的な思いも味わったらしい。四年制の、名の通った音大の学生でなく、たかだか短大の学生ってことで、こいつらみたいな低レベルなやつら、みたいな言われ方もされたらしい。「君には音楽で金メダルはとれないよ」的な発言をされたこともあったらしい。そういった、非常に悔しい思いが、今の彼を造る強力なバネになったのであろう。彼は、その2年間、必死に学んだ。この東京で、音楽で飯を食えるようになるために、必死で頑張った。音楽の大学、専門学校、そして、そこで学ぶ人達は、星の数ほどだ。そんな中で、本当に大成出来る人、少なくとも、それで生活していける人は、ごく少数だ。その中に入らねばならない。入ってやる。彼を支えたのはそんな思いだったという。そして、就職活動のシーズンを迎えることになる。

 短大2年の秋から冬にかけて、ある師匠について某大手ゲームソフト会社の音楽の仕事の現場にいた彼は、1月のある日、師匠に就職のことを訊ねられた。あいまいな返答しかできない彼(その時点でまだどこも受けていなかったらしい)に師匠は、その制作現場に置いてあった某ゲーム雑誌(なにしろそこはゲーム会社)をぱらぱらめくりながら、「これなんか受けてみれば?」と一言。そのページが、彼と株式会社スクウェアとの運命の出会いであった。ゲーム作曲家募集の広告だったのである。ゲーム音楽を自分でやるつもりなど全くなかった彼は、少しためらいつつも、他にあたれる職がなかったこともあって、まず受けてみようと2月初頭、履歴書と3曲分のデモテープを送った。特別に師匠ジキジキの紹介状つきで。ところが、送って2週間たっても、なんの連絡もない。少しあせった彼は自らスクウェアに電話する。ところがその返事といえば、「植松のいうところでは、3曲だけでは判断できないので、あと数曲送って欲しい、とのことです」。・・・???? よくわからないながらも、取り急ぎ更に3曲を書き下ろして送ったのが3月上旬。すると今度は送って2日目で、赤坂の会社まで面接に来てくれ、とのこと。・・・速い。なんなんだ、と思いつつも面接に行くと、そこにはあの植松伸夫氏と、そしてサウンドプログラマーの赤尾実氏が並んで座っていた。(当時の音楽チームはこのお二人に、伊藤賢治氏、菊田裕樹氏の四人のみだったという。)なにやら想像をはるかに越えたお二人のおちゃらけムードの面接の中、彼は色々と失礼な返答を重ねたらしい。「君、ファイナルファンタジーやったことある?」「ありません」「え、ないの? うーん、じゃあウチのゲーム、何やったことある?」「昔のパソコンゲームなら・・・えーと・・・○○○とか、やりましたね」「げ、それは・・・」今や口に出してはいけません的ノリだった・・・。「君、ずっとここでやってくつもりある?」「いえ、あくまでワンステップとしてのつもりです」「・・・・・・。」いくら面接に不慣れな彼とはいえ、これはまずかった、と面接後、後悔した。ところが、フタを開けてみれば、彼はその4月からスクウェアの社員になっていた。 '92年の春。いやあ、めでたしめでたし。人生わからないものでございます。 こうして彼は、ゲーム作曲家の道をさっそうと歩き始めたのである。

 と、言いたいところだったが、現実はそう甘くはなかった。彼は作曲家として入社したのに、いつになっても曲を書かせてもらえなかった。スクウェアには当時、サウンドエンジニアと呼ばれる職種の人がおらず、彼がそこへいつの間にか廻されてしまっていたのである(肩書きはコンポーザーのままで)。そう、最初の仕事は、なんとあのすぎやまこういち氏との作業。当時、スペシャルな外注として「半熟ヒーロー」の作曲をされていた氏の補佐として、サウンドデザイン(要するに氏が書かれた曲をゲーム音源用にアレンジし、ゲーム機の中で鳴るように細工する)を任された。これは嬉しかった。初の仕事が、かのすぎやま氏とかあ・・とか思ってうきうきしていた。でもその後。ずっと裏方になってしまった・・・。途中、曲を書くチャンスも与えられそうになったが、その前に今やっているエンジニアだの効果音だのの仕事がどんどん入る。終わらない。そして曲書きは見送られる・・・。その繰り返しの中、彼はだんだんキレてきた。そしてそのたまりにたまった不満が、彼をとんでもない行動に駆り立てたのである。直訴。それも副社長、坂口博信氏に、であった。「こんなとこで、もうやってられません」「曲を書かせてくれないのならもう辞めます」とかなんとかぶちまけ、それも、その直訴とやらは、数回に渡って繰り広げられたらしい。そしてその結果が、ある日明るみに出た。「そんなに言うなら、今度の新しいタイトル、やってみろ」。・・・・それが、「クロノ・トリガー」だった。いやあ、直訴に出た彼も彼だが、それへの応えにこんなビッグ・タイトルを持ってくる副社長も、副社長だ。(だって、あのドリーム・プロジェクトでしょ?)とにかく、それが彼を世に出してくれた作品であったことに違いはない。恐ろしいプレッシャーだったという(詳しくは「クロノ・トリガー o・s・.v 」CD ブックレットを読んでね)。しかし、この辛くも幸せな経験が、その後の彼を造っていくことになるのである。 '95年3月の発表作品であった。

 その後の展開は、皆さんももう、御存知かな。植松伸夫氏との話題の共作「ガンハザード」('96年2月発表)、そして、加藤正人氏の第一回監督作品、サテラビュー対応の「ラジカル・ドリーマーズ」('96年2月OA)。ここでは単に作曲のみならず、音楽監督として、音楽に関わるところ全ての面倒をみたという思い入れの作品。そして、これまた初めての体験、数人の作曲家のパラパラな音楽をトータル・プロデュースして一つの個性にまとめた、「トバルNO.1」。スクウェア初のプレイステーション作品でもあった('96年8月発表)。 そして、その後しばらくの沈黙(すごい音楽を創っていたのだ!)ののち、 '98年2月には久々のソロ・ワークである「ゼノギアス」を発表。ゲームも然ることながら、更にパワーアップしたそのサウンドのファンへの衝撃も、記憶に新しいところ。

 そうこうしているうち、彼は考えたらしい。色々と、今後の自分の道を。スクウェアでは色々な経験をさせて頂いた。が、これからはそれだけではなく、色々な音楽に触れてみたい、ゲームじゃない仕事だってしてみたい、と思うようになったらしい。また自分との戦いを始めたのであろう。そして彼はフリーの道を選んだ。 '98年7月のことである。それからの歳月はまだ浅いゆえ、ここで特記することはまだ控えよう。しかし、この1年だけでも色々なことが出来たようだ。細かいことをあげればきりがないが、みんな注意していろんなものを見てみよう。きっと、どこかに、光田康典の名前があるはずだ・・・!

以上、光田康典への直接取材をもとに、スタッフが勝手な思い込みにより作成させていただきましたこと、御了承ください。

平成11年11月作成


PROCYON STUDIO